終わりに

日記

サガと本物

サガと本物

今回は自分のサガがどういうものか考える。エッセイ的な記事。
ハンドルネーム観

 僕はハンドルネームを統一しない。一番大きい理由は自意識と言い捨てれば結論になると思う。ハンドルネームの統一のメリットはその人間への認識や理解の早さだ。デメリットは炎上した時のリスクだ。

ハンネに紐付けられたあらゆる情報が当人を追い込みかねない。だから僕は有名人でもないのにハンネをばらけさせて変えている。

僕は自己顕示欲を嫌い、抑制を試みているがそれは世界とのつながりを減らしていくことと変わらない。

 


名前を隠して

 僕は自分の性癖やサガ(性の文字ではわかりにくいのでサガ表記)が世にどう思われるか気になり、たまに出すときがある。
 例えば最近流行りのVtuberのお悩み相談コーナーなどに匿名で書き込む。嗜虐趣味やちょいブス好きなどについて記述すると大体はコメント欄で批判される。
確かにそういう類いの話題が嫌われるのは理解している。だから悩み相談に書き込んでいるという趣旨は理解してほしい。

コメント欄での批判は気に入らない。大体は「厨二病」や「いたいやつ」または「やばいと思われたいだけのやつじゃん」などだ。
ネット社会では人間のあらゆる分類分けがはびこり「わかった気になれる」。

分類わけが進むネット社会

 僕は自分の恥じるべき部分を理解しているし改善したい。だからこういう相談に答えを少しでも見いだそうとしているのに、雑多な人間からすれば「自覚が無い変人」なのである。それが気に入らない。
彼らは「本人が客観視した自分と向き合う苦しみ」を知らない。彼らが想定しているのは「自分のことをやばいと思っている変人」などでいわゆる養殖物だ。

 天然を自称する気はいっさいない。しかし自分にまとわりつくサガ(嗜虐趣味やちょいブス好き)ははたしてそんな演技の過程のものなのか。それは違うと思う。なぜなら先ほど書いたように僕が自覚して改善しようと思っているからだ。

 書いていて少しずつ自分の中でどう言い表そうか考えていたが、ようするに「なんでもかんでもいたい奴で終わらせるな」ということかもしれない。近年のネット文化を見ていると気にいらないものは差別的な言葉やレッテル貼りで簡単に否定できてしまう。

確かに自分がやべーやつだと思い込んだり演じているやつはいたい奴だと思うけど、レッテル貼りがあまりにも横行しすぎて「そうじゃない人間が割りをくっている」のが気にいらない。

ちょいブス好きのジレンマ

 レッテル貼りの派生の話でもしようか。
 ちょいブス好きとして悲しいのはそれを知られた上で誰かを好きになっても相手からすればちょいブス扱いされているわけで、嫌われてしまうこと。

ネ ットで「ちょいブスが好きだし共依存したい」と発言したところ「上から目線じゃん」や「ちょいブス(かわいい)のこと言ってるんだろ」と反応が来たことがあるが、相手の言っていることはわかるがそうだよとは言いたくない。

 まず前者について。
 上から目線と言われても僕がそうしたいから仕方がないし共依存を望んでいる以上こちらの一方的な相手への欲望では無く相手の求めているものも満たそうとしている。よって対等。

 そして後者。
 これもちょいブス好きのジレンマだ。相手が言っているのは「ブスとか言ってるけどどうせ可愛い女のこと言ってるんでしょう」ということだろうが、僕はちょいブスが好きでそれが可愛いと思う以上その対象は「可愛い存在」である。相手の前提とこちらの前提が違うため相手の言っていることはこちらの主観からすれば的外れ。



最後に

 自分の考えをまとめて文章化するという作業は疲れるしつらい。しかしいつか誰かに打ち明けようとした時の資料として必要であるしあとから読み返して発見があるかもしれない。

 創作をする身としても自らの中に存在する要素というのは必要な資源である。