過去アーカイブ感情系
悲しい
世の中が嫌いなのにどうして世の中に愛されようとするんだろう。
世界のほんの少しの優しさを認めたくない。認めてしまったらそんな優しい世でやさぐれている自分が
まぬけにしか見えないから。
自分に興味を持ってくれる人の大切さ
少し嬉しいことがあったので書きます。
このブログをはじめた理由の一つは自分の考えの整理のためや、Twitterでは流れていってしまう自分の好きなものを語った文章をどこかに残しておきたかったからだ。
そして創作意欲のわくような興味を刺激する記事を書きたいというのもある。しかしこのブログは正直言って公開はしているものの人の目には触れさせずこっそりと運営していくのが基本方針だ。誰かに見てもらいたいしかし自分を表現するまたは主張することはリスクを伴う。自分は人に嫌われるのが怖い。自分を知ってもらって仲良くなれるかもしれない希望より、自分を知られることでなにかを失ってしまうことを恐れている。
先日Twitterでこのブログの存在についてほのめかした時、反応が返ってきた。興味を持ってくれる人がいたことを自分は喜んだが、前述の通り人に見られるのは気恥ずかしい。ほのめかした時は「オカルトについての記事を書いているブログ」と表現していた。だから他の記事、つまり愚痴の記事などを読まれたら自分は嫌われてしまうかもしれないと思った。でもその人は自分という人間に興味をもってくれているようだった。
こんなに嬉しいことはない。ネットの知り合いに対して文字に書き起こしてまで好意を伝えることは勇気がいることだと思うし自分という人間に本当に興味を持ってくれた人だからそういってくれたんだと思う。
自分もその人の人間性や趣味が好きだ。このブログの方針は変わらないものの誰かが見て楽しいと思えるような工夫や記事を書こうと思った
今日は誕生日だった
特に良いことがあったわけじゃないが書き残す
誕生日か~SNSに毒されているのか誕生日というと近しい人に祝ってもらうというより、ネットの誰かに祝われたいという本末転倒のような感情がわくことがある。
というのも自分がSNSで絵描き同士の交流をよく目にするからだ。誕生日おめでとうイラストを贈り合ったりしている人は多い昔は羨ましかった。今も羨ましいけれど人のために絵を描くのは大変なのも知っているのでまぁいいかとも思う。
それに自分にはそういうやりとりは似合わない気がする。華々しい誕生日なんかあっただろうか。そもそもSNSの人間に祝ってもらったり絵を贈ってもらうのを華々しく感じる時点でやはり毒されていな。
自分の誕生日はだいたい土曜か日曜で友達に祝われることもない。近年は誕生日が近い友達の誕生日におめでとうと連絡を贈るが自分にそれがくることはない。なんかそんな感じ。
誕生日はその人を主人公にしてくれる魔法ではない。良い日をつくるのは、良い日をつくるのはなんだろう。
家族は理解者か
違うただただとても近い同居人だ。極めて身近な同居人だ。自分を理解してくれる人はどこだどこにいるんだ誰か慰めてくれいっぱい頑張ってきたんだ周りにとってはどうでもいい人間かもしれないでも誰かが自分を理解してほしい優しくしてほしい
昨日のこと
昨日は後輩に会いに行ったよ。僕の時には部活はおろか同級生にも中のいい女子はいなかったけど後輩達は女子に恵まれてる。本当に自然に女子と関わって笑わせる。近づかなくてもよってくることさえある。自分とほかの人間なんの違いがあるんだろう。真っ先に思いつくのはやはり生まれ育った境遇だ。その影響は間違いなくある。かといってその後輩、今回に限っては特定の人物もあまり良い境遇で育ってはいない。
ならば、ならばなんの差だ。それこそ個体としての能力や性格か、性格は何によって形づくられる。境遇だ環境だ生き方だ。
どうしてそこに立っている人間は自分ではなかったのか、そんなことを考えてはそこに立つ人物は自分だけはありえないと思いとどまる。
まぶしい。そんなに特別な経験を彼らはしていたわけではない。ただ自分にとって絶対に手に入らなかった日々があった。今まで無意識に捨ててきた可能性達が僕の成功を許さない。捨ててきたもの以外にもちろん残しているものもある。
言い訳だ。なんとか心の均衡を保つためのやるせない言い訳だけが残っていた。他人にとっての当たり前にすぎていく日々でさえうらやましく感じる日もある。
[ 2018/07/13 02:03 ]
大衆は何
大衆に対して膝をついてまで自分を受け入れてもらう必要はあるだろうか。あれこれためして大衆向けのものをつくってみたりしたこともあった。しかし誰も受け入れないじゃあ自分の考えている大衆に受けるものとはなんだったのか。
どこまでも一般と相いれない価値観を持っているととらえるか、大衆はもはや媚びる価値もないほどに愚かで餌をばらまけば集まるくせに餌をえり好みするほどの浅ましい集団に自分が媚びていたのかはわからない。
他人が見れば世にあふれたひねくれた人間の一人だろう。しかしあふれているならなぜ同士が見つからないのか価値観が合わない人間が恐ろしいかのけ者を増やしていったとして、のけ者たちは似た者同士ではないみたいだ。
のけ者の中に独り。ならそういう人間だけが作れるものがあるか。いやその類のものは「よくわかった顔をした一般人」によって形づくられてそれこそさっき言ったような世にありふれたひねくれ者たちに好かれる。本当の独り者のつくりあげるものは結局独りよがりの作品だ。
それっていけないことなのか。暗い作品ってダサいっけ。マイナーな作品って、人に好かれない作品って、嫉妬だけされて認められない作品って、誰にも共感されない作品って、ダサいってけ。
どこを見ても同じ金太郎飴みたいなものばかり。世の中が好きなものって自分からすればそんなものばかりだ。本音はそうだ誰かが見透かしたのか。違うねほとんどの人間は見ようともしない。
もっと自由なものがつくりたいつくれるはずだった。結局他人を気にする自意識があってそこだけは大衆と変わらずにあったんだ。