終わりに

日記

にじ

オフラインコラボってなんだよ
 にじさんじも一周年でこれまで何度かオフラインコラボ(実質演者のオフ回配信)が行われてきたけどよく考えるとVtuberのオフラインコラボって意味不明だよな…
 この際オフ=オフパコという安易な図式は置いておいて、普段キャラとしてかかわっている相手の顔をお互いに実際に見たうえでキャラを演じてしゃべるので、テレビで声優が顔出しながらアニメ声出すみたいな共感性羞恥めいた感情とか無いのかな。

あとオフコラボしたことがきっかけで身バレした人もいた。

 にじさんじの元Seedsのグループの人たちはその辺の工夫としてオフラインじゃないのに疑似オフコラボを企画したりしていて面白かった。
疑似オフコラボはその名の通り周りのものの音とかを使って演者同士が同じ場にいるかのような配信をする感じ。

イクラ集団とはいうものの
 にじさんじはよく「マイクラ集団にじさんじ」と冗談めいて言われてますが、キャラクター(配信者)同士の関係性を楽しむVtuberファンからしたら、2Dガワ(表情認識)で顔を見せつつ、キャラクターの行動や動作(どんな雰囲気での行動か)がわかりやすくまたマイクラ内のチャットも含めてそれは流行るでしょうという感じです。

 疑似VRチャットのようなものをしつつマイクラ自体も面白いゲームですからね。

 にじさんじ以前の3DVtuberはキャラ同士のかかわりを3Dの機材を使いつつ演じなければなりませんが、にじさんじイクラはさっき書いたように3D化していないにじさんじの配信者でもキャラ同士の関係性を築き上げたり先輩後輩と関わったり、企画の場所にしたりと便利です。

 マイクラ自体もにじさんじのメンバーが遊ぶ前から個人Vtuberから大手Vtuberたちにも使われていました。

にじさんじは昔は3DVtuber原理主義の人達から叩かれていましたが、一方でこのようにキャラ同士の関係性や、女性配信者の多い箱(グループ)に男性キャラを増やしてなおかつ成功させるなど新しい試みが追い風になっています。

「君強いなぁ?」とは

 

 「君強いなぁ?」とは僕がカードゲームの時に使うただの身内ネタである。対戦時に僕が相手に「えぇ!?これとこれしたら今の勝ててたよ」と言われた時や、プレミに気づいた時に生まれた。状況をごまかすために相手を賞賛する言葉。

 なぜか僕の先輩も使い出した。実際にはそんなに深い意味もなく使われる。

不運(2019年の話)

 

新年迎えてからついてない。そもそも昔から良いことない。というのも今回は新しい車で電柱にぶつかった。
病院へいくまでの道で駅の近くの狭い道へ左折したんだけどその際に外から女子高生の叫び声が聞こえた。タイミングがタイミングだし、新しい車は小回りもききにくかったのでまさか事故してしまったかと思ってあらゆる考えがよぎった。

とにかく相手の安全を確認しようと思っていたら電柱にぶつかった。その時はそんなことどうでもよかった急いで付近の女性に「さっきの女子高生は無事でしたか?」と聞いたらなんともないとの返事。

結局なぜ叫んでいたのかもわからないまま車を走らせて病院に向かった。

ただでさえ会社から戻ってきて疲れたのに修理のことや帰りのことを考えるといやになる。

草が便利さと表現力の低下【コラム】

 

SNSで使う「草」という表現すごく便利だけど最近なるべく使わないようにしている。嫌いになったわけではない。
自分の書き込みにおける草の使用率が多くて表現力落ちたなぁと思ったからである。創作者において表現力の低下は避けたいことだ。

しかしながら普通の表現で良かった出来事や楽しかった出来事をSNSで単文で書くとなると、結局「楽しい」「良かった」「面白い」「笑った」などとたいした表現は使えていない。

またもや同じ言葉ばかりである。かといって長文を書くならこのような場所でいい。

匿名掲示板では存分に草を使っている。気にする必要がないため。

結局、誤解を生まずに気楽に表現する時に草は便利すぎるのだ。

人は人に飽きる

 

いつもそうそして飽きられる側にいるのはいつも俺だ。そういう態度くらい簡単に察することはできる。
結局どれだけ頑張ろうと、明るく生きていようとする人間より明るい人間に人は集まる。絵だって同じ
上手い人間の元に人は集まる

あーあ

 

ネットの友達怒らせちゃったなぁどこから本気で怒ってるかわかんなかったし、絶交って言葉は使ってほしくなかった
あの空気のままTLに流れる自分の書き込みがあっちにうつっても、たぶん不快になると思うから逃げちゃった

嫉妬の対象

嫉妬の対象


 私が嫉妬を抱くのは圧倒的な実力者ではない。
自分と同等ぐらいの実力か、過大評価されていると感じる相手

 自分の絵は大衆受けしないし自分という存在も人気者にはならない。
私の絵の根本には孤独がある。孤独だからこそありもしないものを描き続けてきた。時には自分には絶対に向けられないような
笑顔を描いた時もあった。